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stasiの日々


2005-07-28-Thursday

_ [日常]旧友から連絡が来た!

4月末、小学校の友人の名と連絡先をネットで見つけ、本人じゃないかもしれないがメールを出してみた。その後ずっと連絡が来なかったので、やはり同姓同名の他人だったかと諦めていた。

ところが7月4日、"Yes, it\'s me! "となぜか一部文字化けはしてるが、長い英文メールが届いた。そのメールに綴られた内容は本人でなければ書けない話で、他人の詐称ではなさそう。私の母の作ったお稲荷さんがおいしかったなんて話も書いてあり、嬉しいことだ。彼女は今、在イスラエル某国大使館秘書をしている。いつか再会する日が今から待ち遠しい。

_ [日常]私の通った小学校 SIS

父の転勤で小学生の大部分をソウルで過し、ソウルインターナショナルスクール(SIS)に通った。当時ソウルには英語(米語か)の小学校が3つあって、一つは在韓米軍基地内のアメリカンスクール、一つはソウルフォーレンスクール、そしてSISがあった。ソウルフォーレンは英語力の基準が高く、英語を母国語としない者にはハードルが高かった。それに比べてSISは、英語を第二言語とする人のESLプログラムがあり入り口が広く、世界各国の子供達が集まっていた。逆に言えば純粋なアメリカ人(?)は少なかったかも。基本的にアメリカの教育システムだったが、たしか「外国文化」という科目もあり、フィリピンやインドネシア、フランスのことを学んだ記憶があるし、日本について紹介した気もする。(ひょっとしてそれは標準的なアメリカ教育?)そんなワケでSISはアメリカ一辺倒ではなくて、割と国際色豊かだった。

その時のSIS校長は韓国の大ファンで、韓国の民話を英語に訳して出版したり、校舎のあちこちに李朝家具や韓国の民芸品を置いていた。両親は何より校長の考え方に賛同して私をSISに通わせたのだった。ちなみに当時ソウルには中学まで立派な日本人学校があって、ふつう日本人はわざわざ他言語の学校に通うなんて有り得なかった。しかも私は日本人学校からSISに転校した前代未聞の例で、そのことで親はずいぶん周りの日本人から嫌がらせを受けたと後で聞いた。またSISに私を連れて行った初日、校長先生に「帰国後、日本の学校に進学するのは不可能と思って下さい。それでもいいですね?」と聞かれたらしいが、了承したのだからまぁ呑気な親だ。でもSISで触れたことが結果的に今の道につながってるのかと思うと、全然お金にならないくせにお金のかかる道でトホホだけど、面白いと思えるのだからいいのかな。

当時一緒にSISに通った人達も今は世界各国に散らばって、それぞれ活躍しているのだろう。20年ぶりに奇跡的に友人と連絡がとれて感激したので、初めて小学校のことを振り返ってみた。

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]

Before...

_ stasi [kawaseさん、びっくりしました、絶対すれ違ってます!私はたしか81年6月から年度末まで、2年生の時に通ってました..]

_ kawase [うひー、今まで知りませんでしたよ。なんだ、僕たち「同窓生」だったんですか。田んぼでのスケート、懐かしい!!いま、日本..]

_ stasi [その後、教科書事件も起きたりして状況はよくなかったですよね。当初、現地校への転校も考えたようですが、さすがに親もそれ..]


2006-07-28-Friday

_ [日常]

イギリスで知り合ったCさんに本を貸すのに、一緒にルオーでお昼を食べた。彼女は来月からアメリカC大学で講義をするのだが、その内容について話をする。ルオーのカレーはおいしかった。

帰りに秋の研究会で資料として使えそうな本を一冊、T大グッズ売場で購入。

_ []小鳩豆楽

アメリカからの留学生に、私のオススメです、と手土産で頂いて知った。そら豆でできた落雁風の御菓子で、コーヒーにもお茶にも合う。しかも鳩の形をしていて、かわいい。味は好き嫌いあるかもしれないが、私は好き。


2007-07-28-Saturday

_ [日常]

夜、授乳の合間にふとベランダの外に目をやると、遠くに隅田川の花火が見えた。時々欠けてしまうけど第二会場の方なら全体像がわかる程度に。ここ10年近く毎年ボスの所有するビル屋上に呼んで頂いて、迫力満点の花火を間近で観賞してきたのだが、今年も集まりはあったのだろうか。花火の後は皆でボス宅に戻り、飲み直しながら色々な話を交わす。若かった頃(?)は、そのまったりとした時間を苦痛に感じたものだったが、いつの間にか心地よく思えるようになっていた。今日は遠くの空に打ちあがる花火を静かに眺めながら、皆と過した楽しい時間や色々な話を思い出した。